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 ぶらり歩き   
 19. 鶴見川を歩く (4)    平成21年12月26日
 鶴見川の様子も下り流れる傾斜が少し急になり、水の流れが目にはっきりと見て取れるようになり、川岸にはススキ等が生え茂り流れを細くしている。 

 鎧橋(よろいばし)の辺りの鶴見川はほぼ東西に流れていて、その南側は鎌倉街道上道で歩いた町田ダリア園、七国山、北側は野津田公園がある。鎧橋のところは鎧堰水辺の広場(鎧堰跡)(写真13)として河川整備されている。戦国時代に北条氏照(1540〜1590年)の許可を得て武藤半六郎が鶴見川の水を農業用水に利用するために構築したのが鎧堰であるという。川岸にはその説明板が立っている。それによると、鎧という地名の由来として、元弘3年(1333年)に新田義貞軍と鎌倉幕府軍が戦った関戸合戦の時に犠牲となった兵の屍が鶴見川を流れ、折り重なって堰となり、その状況から鎧堰(当時は鎧ケ淵)と呼ばれるようになった説があるという。

 現在も河川整備が行われており、つるみばしから先は川沿いに歩くことができず、一旦住宅の中を通る一般道に出る。
 図師大橋
を過ぎて再び鶴見川沿いの道を歩くと、コンクリートで整備された護岸の間を流れる無表情な流れとなる。流れは北方向となり、そんな道端に文政11年(1828年)の地神塔が祀られている。また、道を2mほど登ったところに首を切り落とされて倒れたままの六地蔵(写真14)庚申塔とともに祀られている。 鶴見川の右岸を進み、坂下のT字交差点で右折して日大三高前から県道155号線を北西方向に上っていく。小山田小学校を過ぎて上小山田みつやせせらぎ公園(写真15)に入ると、公園の名前のとおり鶴見川は小川のせせらぎ程の流れに姿を変えており、約40km下流の東京湾河口で水を満々と湛えた鶴見川を想像することは難しい。 

 小川のような流れを辿るように北西に道を登って行くと、勢い良く水が流れる側溝となり、その先にある小さな池が鶴見川源流の泉(写真16)である。毎日約1,300トンの地下水が湧出しているという。拙宅の月当りの水道使用量は約30立方メートルなので、約43ケ月分の水量を毎日湧出していることになる。以前、源流の泉を訪ねたときにその近くに住む女性から、昔は飲料水として自宅までこの泉の水を引いていたという話を聞いたが、この辺りの農家が飲料水や農業用水として使っても十分な水量といえる。
 滾々(こんこん)と湧き出す泉は地から生まれ出る生命のような神秘性と侵しがたい生命の力を感じさせるが、まさにこの水の湧き出しを始まりとして、生麦の河口で見た鶴見川の大河に成長していくといえる。

 2回に分けて歩いてきた鶴見川ウォークを終えて、バスで町田駅近くまで出て、やまとの湯で温まり疲れを癒す。
 その後は暮れのことでもあり、SさんとKさんの三人を拙宅に誘い、忘年会を兼ねた打ち上げとした。小生気に入りの田酒を酌み交わし、一年のウォーキングの思い出話に花を咲かせる。

    

写真13 鎧堰跡

写真14 六地蔵と庚申塔

写真15 上小山田みつやせせらぎ公園

写真16 鶴見川源流

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